軽井沢が見える万華鏡 No.7
Kaleidoscope
1987年に出版された『あめりか屋商品住宅』(内田青蔵著 住まいの図書館出版局刊)を知人から譲ってもらい、ようやく手に入れることができました。軽井沢では「あめりか屋建築」といえば、大正時代に建てられた貴族の豪華別荘の建築として知られています。それまでの軽井沢の別荘は、外国人を中心に建てられた素朴で質素なものが多かったのですが、あめりか屋によって豪華な洋館別荘が次々と建てられました。あめりか屋を興した橋口信助とはどのような人物なのか、どのようにして貴族たちの別荘を造ることになったのかを知りたいと、大変興味深く読みました。
橋口信助は子供の頃、畳に座らされることを嫌い、ふと見た洋館に興味を持ったということです。30代初め、事業に失敗して渡米。下男の仕事をするなど苦労を重ねますが、アメリカ家庭を見る機会を得たことが、のちの彼の仕事に影響を与えます。日本で洋館住宅を紹介する仕事をしようと思い、シアトルのビジネスカレッジで建築学を学び帰国。あめりか屋を開設したのは明治42年でした。
大正5年、野沢組が軽井沢で土地分譲を始め、同時期に「あめりか屋」も軽井沢に出張所を設けています。橋口信助が野沢組に「土地の分譲だけではなく、別荘地の人々が快適に過ごせるような住まいや環境を提供すべきだ」という提案を行い、野沢組はこれを受け入れてあめりか屋とタイアップしました。この年には徳川慶久の別荘を建築。続いて細川護立、津軽承昭、大隈重信など貴族や政財界の人々の別荘建築に関わることになりますが、橋口信助はこれらの人々とどこで知り合ったのでしょうか。彼が住宅の改良をうたった「住宅改良会」への参加を求めた際に、賛助員に名を連ねた徳川慶久や大隈重信の協力を得て、その繋がりから仕事を得たようです。
あめりか屋は軽井沢では大正10年頃までしか活動していなかったのですが、建築学上では、軽井沢はあめりか屋建築の初期の作品が今も確認できる大切な場所と位置されています。
(軽井沢ヴィネット春号では、この貴重な別荘の一つ、旧・徳川圀順別荘を紹介しています)
(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)
橋口信助は子供の頃、畳に座らされることを嫌い、ふと見た洋館に興味を持ったということです。30代初め、事業に失敗して渡米。下男の仕事をするなど苦労を重ねますが、アメリカ家庭を見る機会を得たことが、のちの彼の仕事に影響を与えます。日本で洋館住宅を紹介する仕事をしようと思い、シアトルのビジネスカレッジで建築学を学び帰国。あめりか屋を開設したのは明治42年でした。
大正5年、野沢組が軽井沢で土地分譲を始め、同時期に「あめりか屋」も軽井沢に出張所を設けています。橋口信助が野沢組に「土地の分譲だけではなく、別荘地の人々が快適に過ごせるような住まいや環境を提供すべきだ」という提案を行い、野沢組はこれを受け入れてあめりか屋とタイアップしました。この年には徳川慶久の別荘を建築。続いて細川護立、津軽承昭、大隈重信など貴族や政財界の人々の別荘建築に関わることになりますが、橋口信助はこれらの人々とどこで知り合ったのでしょうか。彼が住宅の改良をうたった「住宅改良会」への参加を求めた際に、賛助員に名を連ねた徳川慶久や大隈重信の協力を得て、その繋がりから仕事を得たようです。
あめりか屋は軽井沢では大正10年頃までしか活動していなかったのですが、建築学上では、軽井沢はあめりか屋建築の初期の作品が今も確認できる大切な場所と位置されています。
(軽井沢ヴィネット春号では、この貴重な別荘の一つ、旧・徳川圀順別荘を紹介しています)
(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)
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