スイス公使の日記も初公開 旧スイス公使館「深山荘」の謎に迫るシンポジウム
第二次世界大戦中にスイス公使館が疎開していた旧軽井沢の「深山荘」の歴史的意義や役割について探る公開シンポジウムが8月22日、軽井沢町中央公民館で開かれた。同日の旧スイス公使館の現地見学会に続き軽井沢町と筑波大学が主催し、約250人が受講した。
1940年から45年までスイス公使を務めたカミーユ・ゴルジェ氏の日記を研究する、フライブルク大学(スイス)のクロード・ハウザー教授(近現代史)や、ゴルジェ氏らが戦中に本国の外務省などへ送った電報の解読を進める筑波大学の花里俊廣教授(建築計画学)ら6人の研究者らが講演した。
ゴルジェ公使の日記は、日本滞在中の回顧録や公式報告書、書簡などから情報を再構築し1953年頃に書いたもの。軽井沢での日常生活や直面した課題など、個人的な体験に基づいて書いている。
ハウザー教授によると、軽井沢への疎開が決まった1944年6月の日記には、「寒い時期に、暖房もなく木と紙でできた家で住むことができるだろうか」と不安を綴り、疎開後の同年8月1日には、スイスナショナルデーに合わせて公使の家で開いたパーティーに、軽井沢に滞在しているスイス人を集め、ケーキやチョコレートを振る舞ったことを記載。「食料は不足しているが、皆志気は高い」と記されている。
1945年6月3日には、「住宅の隣りで労働者が穴掘り作業をしている。皇太后が避難するための地下壕を掘っているようだ」。同年7月20日には、「庭に壕を掘る作業は終わったようだ。灯りがつき、中には家具も揃い、二人の兵士が日夜入口を守っている。皇太后はもうそこにいるのかもしれないし、いないかもしれない。知りたくもない」と綴った。
また、ハウザー教授は、「終戦日の8月15日の日記に、ゴルジェはほっとしたという感情と、日本兵による報復に対する不安の両方を表している。日本の降伏による終戦を、ゴルジェは当事者というより傍観者の立場でみている。憲兵の強い監視下にあり、本当の意味で終戦に向けた調停役を果たせなかったのでは」と話した。
花里教授はゴルジェ公使らが本国の外務省などに送った電報の中に、フランス語で「軽井沢を爆撃しないでほしい」という意味の「イミュニテ カルイザワ」と記した文言があると指摘。文言は、1945年6月8日から7月30日に宛てた電報のうち19通に見られるという。
花里教授は「軽井沢が貞明皇太后の疎開先として名前が挙がっていたことから軽井沢を爆撃対象から除外してほしいという意味も考えられるが、『イミュニテ カルイザワ』が『国体護持(天皇制維持)』の符号で、スイスが講話条件などを探っていた可能性もある」と、見解を示した。
(写真は中央右:クロード・ハウザー教授、左下:花里俊廣教授)