東日本大震災から8年

1903_sp_sinsai01.JPG 軽井沢駅通路に展示する写真を選ぶ「震災を忘れないプロジェクト」のメンバー。一番右が飯塚さん。
震災直後から今に至るまで、被災地に寄り添い活動を続ける町内の人々、企業の取り組みを取材した。

被災地と繋がるイベントで 生の話を伝える

 2月16日、万平ホテルで開かれた東北とつながる映画祭。「この映画で東北を近くに感じてもらえたら嬉しい」と挨拶した主催者の飯塚真由美さんは、東日本大震災が起きた2011年から復興支援の活動を続けている。きっかけは震災後、軽井沢町社会福祉協議会が開催した岩手県・大槌町でのボランティアバスパックに参加したことだった。

 「釜石市内のある道を曲がったところから景色が一変しました。家が崩壊し、瓦礫が散乱、現実とは思えない光景。大槌町は辺り一面何も無く、ここに生活があったとは想像できませんでした」

 その後も開催されたボランティアバスパックのほぼ全てに参加し、知り合ったボランティア仲間たちと「3・11軽井沢つむぎ隊」を結成した。現地での支援や大槌町の特産品や支援グッズの販売などに取り組んできた。16年11月、大槌学園(旧大槌小学校・大槌中学校)の仮校舎が本校舎になったところで、活動に一つの区切りをつけた。

 飯塚さんはその後も「震災の風化が加速する中、何かできることがあるのではないか」と〈震災を忘れないプロジェクト〉を開始。17年3月11日、軽井沢駅通路で被災地の写真展を開催した。「軽井沢町には岩手だけでなく、宮城・福島を応援している人たちもいる。三陸沿岸の6年間の様子を知ることで、追悼と寄り添う機会にしたい」と3県の写真やこれまでの支援活動等を展示した。震災から8年目の今も被災地を訪れ支援、交流を続ける。

 「日頃、震災のことを忘れるのは仕方がないこと。イベントの記事やチラシを目にしたり、被災地のことを見たり聞いた時、東北に気持ちを向けてくれたら嬉しい。悲しい出来事ですが、活動する中で知り会えた人がいる。それは私の宝物です」

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震災翌年から毎年大槌町へ
会社をあげて支援・交流
1903_sp_sinsai02.JPG 昨年3月はホテル音羽ノ森社員全員で大槌町へ。グループに分かれ、海産物問屋の仕分け作業や雪かきを行った。
 東日本大震災から一カ月後の2011年4月、旧軽井沢ホテル音羽ノ森は、別館のザ・コッツウォルズハウスをオープンした。世間はまだ自粛ムードの漂う中、代表取締役の鈴木健夫さんは予定通り開館を決め、お披露目会に集まった人を前に、ホテルの収益の一部を被災地に寄付していくことを宣言した。

 同年11月、軽井沢ライオンズクラブの一員として初めて被災地を訪問。「企業として支援を続けていくには、スタッフにも被災地の現状を見せないといけない」と、12年4月から毎年春秋2回、メンバーを変え社員とともに岩手県大槌町の視察を続けている。

 最初の頃は、瓦礫が大量に積み上がった惨状を目にし、涙をこぼすスタッフも。「とても地元の方に話を聞ける状態ではなかった」が、街が復興に向け徐々に動き出した4、5回目の訪問から、交流も始まった。

 震災後2年間は毎月、赤十字社を通じて収益の一部を寄付。交流が始まってからは、大槌中学校にサッカーゴールを寄贈するなど、顔の見える支援に切り替えた。今も収益の一部を貯め、大槌町との交流事業やイベント開催の費用に充てている。

 今後はホテルや旅館勤務志望の若者を、軽井沢で引き受ける活動にも取り組むという。

 「大槌町に希望する就職先がない場合もある。軽井沢で経験を積んで地元へ帰って貢献してもいいし、軽井沢でずっと働いてもいい」

 被災地との寄り添い方は、時間の移ろいとともに変わってきたが「震災を風化させず、忘れない」という思いは今も変わらない。つながりを大切に、大槌町との交流は続いていく。
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松本哲也Talk&LIVE草の根的岩手沿岸応援企画
「キモトボクヲツナグノハ」in 軽井沢 st.3


日時:4/11(木)19:00〜22:00
場所:日本料理と蕎麦 冴沙
「希望郷いわて文化大使」「大船渡ふるさと大使」のシンガーソングライター松本哲也さんのライブ。三陸沿岸の復興状況についても語る。三陸直送食材を使った特別メニューを提供する。完全予約制(締切4/8)。 予約・問合せ:TEL090-3545-3475(飯塚)

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