127年目の軽井沢 Vol.4

(前号までの内容:ビルゲイツの別荘なのか、それとも...。多くの人の興味はそれだったが、工事現場近くに住む前田さん(仮名)は頻繁に通るダンプカーに悩まされていた。軽井沢自然保護対策要綱では、「良好な生活環境の保持」など、保養地域(別荘地)で心地よく過ごせるよう配慮することが謳われているのだが。この要綱はいったいどのように作られたのか、役場に聞いても知っている人は誰もいなかった。そこで星野嘉助さんに尋ねてみると...)
ph_201306-01.jpg土地の総ての木を切って売り出した分譲地



 長年、自然保護審議会の委員を務めてきた星野嘉助さん(今年3月逝去)に会ったのは、2月中旬のこと。「軽井沢自然保護対策要綱(以下、要綱)を作ることになったのは、離山にロープウエイを通して展望レストランを造る計画が持ち上がったことがきっかけでした」。星野さんは遠い記憶を辿るように、ゆっくりと話し始めた。

 「展望レストランを計画した人に、父(Ⅲ代目星野嘉助氏)や別荘の人たちが『軽井沢はそういうところではないよ』と諭し、その人はわかってくれて取り止めました。でも、またこのような計画が立てられ、自然を破壊することが起こらないとも限らないということから、この要綱が作られたのです。ちょうど、佐藤正人さんが町長になったばかりの頃だったので、町長にもよく説明して納得してもらいました」。

 要綱を読むと、随所に軽井沢を愛する人々が自然環境を守り、動植物を保護し、避暑生活を快適に過ごそうという気持ちが強く込められているのがわかる。地元住民というよりは別荘住民の視点から書かれている。
 現在、自然保護審議会の委員であり、町議会議員でもある内堀次雄さんにもこれは誰が作ったものかと訊いてみた。「おそらく、別荘の会の人たちから知恵をもらって考えたものと思われます」との答えだった。 
 軽井沢会の理事を務める英義道さんは、この要綱に父の英修道さんが関わっていたことを教えてくれた。英修道さんは慶応大学の教授で、前理事長・服部禮次郎さんの前までずっと、軽井沢会の理事長を務めてきた人だ。
 これで、要綱が誕生した様子が何となくわかってきた。正式に要綱が発足したのは1972(昭和47)年。その後、要綱に沿って軽井沢は厳しい規制が行われ、高層建築ができることもなく、大きく自然が破壊されることもなく、第1次バブル期も環境が保たれて来た。
 しかし、現在の軽井沢はどうだろうか。今年3月に行った軽井沢新聞社の調査で「軽井沢の自然環境は守られていると思いますか」という質問に6割以上の人が「守られていない」と答えている。別荘地のあちこちがいつの間にか皆伐されて、様変わりしていることを嘆く声が新聞社にも届く。
 軽井沢自然保護対策要綱はいつから規制の力をなくしたのだろうか。そこには、先人達が予想し得ない落とし穴があった。

(次号へ続く)広川小夜子

※「127年目の軽井沢」の127年とは、A.C.ショーが軽井沢を避暑地として見出してからの歳月。

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