【軽井沢人物語】松竹株式会社エグゼクティブフェロー 岡崎 哲也 さん

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軽井沢63年、歌舞伎60年、音楽50年 ライフワークは楽焼で描く浅間山

 3歳からの歌舞伎、12歳からのクラシック、そして生まれる前からの軽井沢。岡崎哲也さんを構成する3つの要素だ。「3,4歳の頃から、毎日のように歌舞伎を観ました。十一代目團十郎さんはいい男で、声が強くて特別な存在感でした」。昭和59年、松竹株式会社に入社。プロデューサーとして活躍し、平成22年の建て替え前の歌舞伎座さよなら公演や、新歌舞伎座こけら落とし公演を手掛けた。「関わった公演すべて印象的ですが、特に昭和62年ソビエト公演の六世歌右衛門さんの『隅田川』は、お客様からの地鳴りのような拍手が今も忘れられません」。公演制作の傍ら、川崎哲男のペンネームで歌舞伎や日本舞踊の脚本執筆や演出にも従事。今年7月、松竹株式会社取締役を退任し、エグゼクティブフェローに就任した。

 子どもの頃、千ヶ滝の近所の別荘へ行くと、隣に住むドナルド・キーンさんの家からマリア・カラスの曲が流れてきた。「これがクラシックとの初めての出合いでした」。以来、音楽にも夢中になる。

 「昭和62年のモスクワの歌舞伎公演では、客席にピアニストのリヒテルを見かけて『失礼ながらリヒテル先生ですか?』とお声かけして、それがご縁で東京でもお目にかかるようになりました。レナード・バーンスタインさんと朝まで飲んだりしたこともありましたね」。歌舞伎座を訪れた指揮者のクライバーやピアニストのホロヴィッツとも親しく交流をもった。

 3年前からは東京交響楽団の理事長を務めている。同楽団正指揮者・原田慶太楼さんのコンサートが8月に大賀ホールで開催され、音楽でも軽井沢と関わるように。

 軽井沢では幼少期から堤清二さんや山崎富治さんなど財界人・文化人と関わってきた。「私の80%は軽井沢で出来ています。良いもののご縁は全て軽井沢のおかげ」

 毎年4月から11月は時間があれば旧軽井沢の別荘で過ごす。子どもの頃から楽焼に熱中し、今も毎週、陶画堂で浅間山を絵皿に描く。「世の中、変わらない町はないけれど、軽井沢はこの自然のボリューム、バランスを変えずにいてほしい。浅間山を怒らせないようにしてほしいです」

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