【軽井沢人物語】演出家 星野 和彦 さん
「多くの経験が集積している、軽井沢は絶好のキャンバス」
民放ラジオがスタートした1950年代からメディアの世界に身を置き、テレビや舞台劇、ファッションショーなど、様々な場面で演出を手がけてきた。1960年には、パリの「ムーラン・ルージュ」で「ラ・ルビュー・ジャポネーズ」を演出。日本人による戦後初めてのパリ長期公演を成功させた。
「国際電話が繋がる帝国ホテルに制作オフィスを置いて、準備は一年がかり。その後にも関わる転機でした」
1958〜68年、NET(現テレビ朝日)に在籍。手がけたワイドショー「木島則夫モーニングショー」は報道が半分で、残りは番組独自のの音楽芸能を毎週作ったり、オリジナルコンテンツの発信に情熱を燃やした。美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」が初めて世に出たのも、この番組だった。
「電話口で何曲か歌ってもらったうちの一曲。機械の進化で仕事のスタイルが変わってきている時代に、母を思うというモチーフが重なって良いなと思い、すぐキャスティングしました」
今年3月に「エンタメ・メディア一刀両断」(文藝春秋)を上梓。若い世代に読んでもらいたいと1ページ1テーマの短文で、実体験をもとに今日のエンタメ界に檄を飛ばす。
「売れるもの最優先で、文化の地位は落ちて、経済のしもべになっちゃった。この変則的な時代はいつまで続くのでしょうか」
1931年東京生まれ。若い頃は軽井沢の貸別荘に夏だけ滞在。様々な人と交流した。夜の別荘地で作家の遠藤周作さんらと、毛布を頭からかぶって「お化けだー」とふざけて走り回ったのも良い思い出だ。
「彼らと日常的に付き合えたのは、幸せでした。夏の延長で、秋冬春は東京で仕事ができたんです」
1990年に移住後は、軽井沢でも音楽やアートの催しを次々と企画し文化振興に貢献。2007年上演の合唱オペラ「軽井沢組曲・美しい村」では浅間山の噴火、宿場町の賑わい、避暑地を築いた先人へのオマージュなど、1000年の喜怒哀楽を全15章の詞で表した。
「軽井沢には先人たちの経験が集積していて、誇るべき財産が随所にある。キャンバスとしてこれほど絶好な場所はない」
現在は、映像を交えて様々なテーマで講演する「軽井沢ぶんか組」を定期的に開催。次は7月「西洋名画うらよみ」をテーマに、ルネッサンス以降の現代美術を解説する。