軽井沢図書館友の会会長 内山 章子さん
幼い頃より訪れた夏の軽井沢は「野の花に会いにいくのが楽しみだった」。戦時中の1945年2月、高血圧症で倒れた母の看病で滞在した16歳の冬の軽井沢は、別の意味で今も心に焼き付いている。夏仕様の別荘だったため、卵やご飯は室内でも凍りつくほどの寒さ。3月、空襲で東京が打撃を受けると、家を失った親戚が次々とやって来て、母の看病と大家族の世話に孤軍奮闘した。
「私、そこで大人になったんだと思います。春が来て、離山に咲いたコブシの花の白さは忘れられません」
「あなたさえ我慢すれば、鶴見家はうまくいく」と諭され、戦後も看病は続いた。進学も就職も許してもらえず、やがて1950年、当時法政大学助教授だった内山尚三さんと結婚。2002年に夫が亡くなるまでは主婦一筋。三回忌に追悼文集をまとめ終えると「16のときにせき止められたものが、76になって溢れ出ちゃった」と、京都造形芸術大学芸術学部通信教育部へ入学した。卒業論文のテーマに選んだのは、江戸時代中期の絵師・呉春の《白梅図屏風》。初めて見たとき「絵の前で2時間立ち尽くした」ほど、好きな作品だった。
2012年3月、83歳で卒業するまでに7年かかったのは、京都で闘病していた社会学者の姉、鶴見和子さんの介護に追われたため。和子さんが2006年に亡くなると、闘病生活を記録した『鶴見和子病床日誌』をまとめ自費出版。亡くなる5日前、和子さんが言った「死ぬって面白いわね」の言葉が今も耳に残っている。
「自分が考えていた通りに、理路整然と死ねなかったのが、そう言わせたんでしょうね」
「呉春の研究を続けたい」と、現在は日本絵画史を学びに、聴講生として成城大学に通う。<学生はエレベーターに乗ってはいけない>という決まりを律儀に守り、4階まで階段を上っている。
世田谷区に一人暮らし。趣味は60歳を機に始めた俳画と俳句。今夏は子、孫、ひ孫と、4世代が夏の軽井沢に集まった。戦中から持ち続けた心の飢えは、満たされつつある。